修善寺温泉の歴史は弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まる。
修善寺に幽閉された源頼家は入浴中に暗殺されており、
少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかる。
それ以後の北条早雲や豊臣秀吉の古文書にも温泉入浴のことが出ているが
どの程度の設備があったかは不明である。
しかし、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの周囲の農家が湯治客を相手に
部屋貸しを始め徐々に設備を充実していった。
いわゆる木賃宿で、湯治客は自炊を主とし、内湯はなく共同浴場に通っていた。
それから、共同浴場を貸し切る留湯という制度が始められ、農家は副業から次第に専業の旅館に
変わっていったが、この頃には既に湯治場としてそうとう知られていた。
明治初年になって、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、交通機関が整備されて、
多くの文人墨客が訪れるようになった。
そして、それらの作品には、湯治場から避暑地化した様子や温泉場と呼ばれる風物が表されている。
共同浴場は独鈷の湯、稚児の湯、川原湯、箱湯、新湯、滝の湯、石湯、寺の湯、杉の湯があったが、
この9湯の内、現在残っているのは「独鈷の湯」だけである。
(「箱湯」は2000年に新たに立て直され、他の温泉も復興予定です)
その後、温泉場の住民用共同浴場として、町内会共同経営の神戸湯、南湯、源氏湯、真湯が作られ
利用されている。
温泉郷は、昭和21年までは自噴泉と小規模タービン揚げ湯とが共存していたが、22年以降乱掘、
増掘競争が始まり、25年には自噴泉は総て枯渇してしまった。
また、平均泉温は昭和22年までは65℃であったが、56年には56℃まで低下した。
この対策として、温泉事業協同組合では、利用可能な源泉73井の内
優良な26井を集中管理することとし、昭和54年11月に着工、56年5月に完成した。
その結果、水位は集中管理前は平均で海抜15mであったが、
59年10月には80mに、泉温も62℃に上昇した。
泉質は、単純泉と含芒硝石弱食塩泉で、神経痛、リューマチ、胃腸病などに効果がある。
|