指月殿境内にある。
頼家は正治元年(1199年)に、父頼朝の死により家督を継いで、鎌倉二代将軍となった。
幼少から才気活発で弓馬に長じ、建久4年(1193年)の富士野の狩場で高名を挙げたこともある。
しかし家督を継いで間もなく、北条氏など元老の干渉も多く老臣会議制を敷かれて独裁を封じられた。
さらに建仁3年(1203年)に罹病した時、相続のことが議せられて、北条時政と母政子(時政の娘)が、
子の一幡と弟実朝に分譲する案を出した。
これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員と意見が対立し、
北条氏との間が次第に険悪化していった。
また、北条氏に対抗して頼家は、源氏の実権の回復に努め、能員と組んで北条氏を討とうとしたが、
かえって能員と一幡は殺され、頼家は修禅寺に幽閉されてしまった。
そして翌年の元久元年(1204年)に時政の密計により、
修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯で暗殺された。
このとき頼家は23歳という若さであった。
現在、7月17日には地元の町内会により頼家忌が催されている。(命日7月18日)
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